ホテルの一室に、水音が響いていた。
夕暮れ時のシャワー。熱い湯を浴びながら、ふうと溜め息をつく。
今夜は早めに休むつもりだった。何せ、特訓は体力勝負だ。
うかうかしていたら、小憎らしいまでに優秀な我が生徒に、あっさり負かされてしまう。
ヒバリの鋭い双眸を思い出し、ディーノは笑みを浮かべた。
馬鹿にはされたくない。あの生意気な態度を前にすると、こっちも妙な気合いが入るのだった。
髪を拭きながら出てきたディーノは、ベッドルームの戸を開けて目をぱちくりさせた。
「あれ、恭弥来てたのか」
ベッドの上に寝そべって、ヒバリはテレビを見ていた。まるっきり我が物顔である。
彼はちらりとこちらを見たが、すぐまたテレビに視線を戻した。
「無防備だね、鍵くらい掛けたら」
ディーノは思わず「え?」と聞き返した。
「掛かってなかったか? オートロックじゃねーのかな」
いや、現にヒバリが入ってきているのだから、やはり掛かっていなかったのだろう。
我ながら無用心だと、内心慌てた。
ヒバリはテレビ画面を見つめたまま少し笑って、「風呂場の話だよ」と答えた。
「風呂場……?」
「部屋の方は、ちゃんと掛かってたみたいだけど」
噛み合わない会話に戸惑いつつも、ディーノは一応、部屋の鍵を確認しに行った。
ドアの前に立って調べたところ、鍵はオートロック式で、きちんと作動もしている。
ほっとしたのも束の間、ディーノはふと首を傾げた。
(じゃあ結局、恭弥の奴、どうやって中に入ったんだ……?)
部下のロマーリオに言って、合鍵を借りたのだろうか。
釈然としなかったが、まあいいかと結論付けて、彼のもとへ戻る。
ヒバリは先程から、何かの映画を見ているらしかった。
時折瞬きをするくらいで、表情は分からない。集中しているのかもしれない。
そんなに面白いのかと、ディーノもベッドの端に腰掛け、鑑賞することにした。
しかし、途中からなので、話の流れが見えず混乱してしまう。
ヒバリに訊いてみるという手もあるが、親切に教えてくれるとも思えなかった。
「ねえ、それ何の匂い?」
不意に、ヒバリが振り向いた。
「ん、何か臭うか?」
ディーノには、特に異臭は感じられない。
すると、ヒバリは徐に起き上がって、ディーノの方に近寄ってきた。
「うん。……あなたの体が」
「なっ!?」
ディーノは咄嗟に、自分の腕を嗅いでみた。
ショックだった。よりによって風呂上がりに、こんなことを言われるなんて。
これが部下の誰かだったら笑ってすませたかもしれないが、ヒバリ相手だと決まりが悪い。
「……オレってエンツィオ臭いか? 自分じゃ分かんねーけど……」
以前‘カメ臭い疑惑’が持ち上がったことを思い出し、ディーノは恐る恐る尋ねた。
気まずくて、何だか顔が上げられない。
ふつりとテレビの電源が切られる。
下を向いていたため、覆いかぶさってくる影に気付くのが遅れた。
「お……?」
肩に手を置かれ、ディーノは驚いて声を上げた。ゆっくりと顔が近づいてくる。
頬が触れ合う、柔らかな感触。ヒバリはそのまま、ディーノの金髪に鼻をうずめた。
――臭いを嗅いでいるのだ。
「や、やめろよ恭弥っ」
ディーノはさっと赤面して、ヒバリを押し返した。
ただでさえ恥ずかしいと思っているのに、こんなのってない。
だが、ヒバリは掴んだ肩を放すどころか、いっそう力をこめてくる。
抗議しようと見上げれば、黒い瞳がいつもより艶っぽい光を帯びていた。
「甘い匂いがするね、あなたって」
何か付けてるの、と訊かれて、ディーノは我に返り首を横に振った。
「じゃあ、真っ赤に熟れた血の匂いかな」
冗談めかした言い方だったが、彼の微笑は、ディーノをどきりとさせるのに十分だった。
やばいやばいやばい。
いや、何がやばいのかは分からないけれど、ヒバリが大人びた表情を見せるから。
触れ合うほど近くにいることを、急に意識してしまう。ディーノは軽くのけぞった。
「うわっ!」
「!?」
ベッドの端にいたのを忘れていたのだ。
むやみに後ろに体重をかけたものだから、転がり落ちる結果になった。
ディーノは背中からフローリングに叩き付けられた。
ヒバリも道連れとなって、ディーノの上に乗りかかるような形で一緒に落ちてきた。
「わりー恭弥、大丈夫か!?」
自分も思いきり腰を打ったのだが、真っ先にヒバリの様子が気になった。
「あなたって人は……」
ヒバリは文句を言いながら身を起こしたところだった。
ケガがないと分かって安堵する。何といっても、大切な教え子なのだから。
黙って手を差し伸べられた。引っ張り起こしてくれるつもりらしい。
ディーノは素直に感謝し、右手を出した。
ところが予想と違い、ヒバリはその手を捕らえて、そっと指に口付けてきた。
意外なまでに優しいキス。
「恭弥……」
生徒だと思っているのはこっちだけで、ヒバリの方はディーノを慕う気持ちなどないのだろうと
諦めていたのだが。
嫌いな相手だったらキスはしない。
改めて考えてみれば、一緒に特訓している間も、それなりにスキンシップは取ってきたし。
「なあ、変なこと訊くけど……」
「何」
もしかしたら、ディーノが思っているよりはずっと、懐いてくれているのかもしれない。
「……お前ってさ、オレのこと少しは好きなのか?」
ヒバリは大きく目を見開いた。そして、珍しく声を立てて笑い出す。
「何で笑うんだよっ? 真面目に訊いてんだぞ!」
むっとして言うと「あなたはどう答えて欲しいの?」と、はぐらかすような言葉が返ってきた。