月夜のことだった。静まり返った並盛中学校で、応接室にだけまだ明かりが点いている。
最後にもう一度目を通してから、ヒバリはファイルを閉じた。時刻は既に夜十二時を回っていた。
ソファーから規則正しい呼吸が聞こえる。見下ろした先には、ディーノの無防備な寝顔。
ヒバリが仕事を終えるのを待っていて、いつの間にか眠ってしまったようだ。
白い喉はむき出しで、金髪が微かに波打つ。
「終わったよ……ディーノ」
何となく、名前を呼んでみる気になった。
肩を揺さぶると「んん……」と唸りながら、ディーノは蜂蜜色の目を開けた。
「うわ、もうこんな時間か。お疲れ恭弥」
「先に帰ってても良かったのに」
つい、心にもないことを言ってしまう。
ディーノは笑いながら手を出して、そっとヒバリの頬に触れた。
ダラダラと居残るのは性に合わない。すぐに戸締りを済ませ、応接室を後にする。
そういえば、ディーノはどの方向に帰るのだろうか。並んで歩きながらふと思った。
日本にいる間はホテルに滞在しているそうだが、それ以上のことは知らない。
別に詮索する気もなかった。彼が綺麗な顔立ちをしていること、戦闘相手として上出来だと
いうこと、そのくせ妙なドジをすること――それだけ分かれば充分というものだ。
「……なあ、電気点けねえ?」
何を思ったか、ディーノがそんなことを言った。グラウンドに面したこの廊下は、突き当たりに
大きな鏡がある。暗闇に吸い込まれるように、鏡は歪んだ像を映した。足音が天井に響く。
「面倒臭いからいい」
点けるのはいいが、またいちいち消して帰らなければならない。億劫なのだ。
歩けないほど暗くはないしね、と言い足す。
「そーだけど、何か気味悪いっていうか……」
ディーノは周りをちらちら気にしつつ口ごもった。
珍しいものを見た気分で、ヒバリは目を見開いた。
「あなた、マフィアのくせにオバケが怖いの?」
「ち、ちげーよ! 暗いのが嫌だって言っただけで……」
闇の世界の住人が、おかしなことを言うものだ。でも実際、ディーノの本質は光なのだろう。
ヒバリは暗闇が好きだった。煩わしい物音もなく、ひっそりと包み込んでくれる闇が。
だから、こうやってディーノと一緒にいられるのは不思議だ。互いに相容れないはずなのに。
隣りにいるのが心地いいだなんて、どうかしているとしか言いようがない。
この甘い金色に、毒されている。
きゅっと袖口を掴まれた。怪訝に思い立ち止まる。
「……何その手」
「いいだろ、別に」
シワになる。歩きにくい。文句を言うこともできたが、ヒバリは敢えて黙っていた。
布地に隔てられた、つかず離れずの状態だ。
突き当たりを右に曲がる。窓の外には、中庭の夜が広がっていた。
花弁が宵闇に淡く浮かび上がる。振り零れたひとひらが、地面までの白い軌跡を描く。
「ああ、桜か。夜見ても綺麗なんだな」
確かに見事な枝だ。今夜辺りが見頃だろう。
グラリと視界が揺れる。覚えのある感覚に、ヒバリは顔をしかめた。
「なっ……どーしたんだ?」
壁にもたれると、ディーノが驚いたように声を上げた。
眩暈の原因は分かっている。この美しい桜だ。
以前、花見の時に発病したのと同じ症状だった。桜に囲まれると立っていられなくなるのだ。
まさか、今になって再発するとは思わなかったが。
「具合悪いのか?」
心配そうに顔を覗き込んでくる。吐息も触れ合うほどの距離で、心なしか肌の匂いを感じた。
あえかに舞う花吹雪、angiolettaの可憐な祈り。とろけるような眩しさに、思わず目を細める。
無様な所を見られたのが悔しくて、一呼吸置いてから彼を突き飛ばした。
×××
「うああ……っ」
不意を突かれたディーノは、成す術もなく後ろに倒れた。
「何すんだよ!」
焦った表情を見て、少し気分がよくなる。性格が悪いのは今更だ。
ヒバリはガクリと膝を付き、ディーノの上に力なく覆いかぶさった。
「恭弥……?」
ゆっくりと額をすり寄せた。悪戯なスキンシップを、ディーノは拒んだことがない。
それが彼の本意なのかは知らないが、どちらにせよ逃がすつもりはなかった。
唇を僅かに動かし、「頭がクラクラする」と掠れた声で訴える。
「やっぱりお前、具合が……!?」
「そうじゃなくて」
飛び起きようとしたディーノを上から押さえ付け、ヒバリは真顔で言った。
「桜、苦手なんだ」
「……え?」
きょとん、とこちらを見返す顔。
戦いにも長けたマフィアのボスが、ふとした瞬間に幼さを覗かせるのだ。
そんな所も、嫌いではなかった。
「桜を見てると眩暈がする」
「ホントか、それ……」
彼の金髪を指に絡ませ、梳いてやるのが好きだ。
手を伸ばそうとした時、視界が大きく揺れて、ヒバリはディーノの肩口に頭をぶつけた。
びくりと震えが走る。見ると、ディーノが笑い声を漏らしていた。
「桜が苦手って、ワケ分かんねー……恭弥可愛い」
ツボに嵌ったらしく、ディーノはしばらく笑い続けた。
その隙に、頬に幾度か口付ける。目くるめく熱さが襲ってきた。
「でも、そんなにフラついてちゃ危ないよな。おんぶしてやろーか?」
ヒバリはディーノを睨み付けた。親切心で言ったにせよ、プライドに障る。
「あなたは暢気だね。この状況、分かってるの?」
「状況って……」
暗がりで男に押し倒されている割に、危機感がなさ過ぎる。
尤も、彼からすれば、生徒が甘えてきたくらいの感覚なのだろう。
――触れたい。腕にかき抱いて、自分が子供でないことを意識させたい。
だが、再び激しい眩暈がして、ヒバリは軽く目をつぶった。
「おい、本当に大丈夫か?」
厄介な病気だ。興がさめてしまい、ヒバリは溜息をついた。
「やっぱり、オレがおぶって帰るしか……」
「それ以上言ったら咬み殺すよ」
きっぱり遮ると、ディーノは途端に押し黙った。
「……じゃあ、手を繋ぐってのは?」
彼なりの妥協案らしい。差し伸べてきた手を握り返すことで、それに応える。
手を繋いで、桜の下。計らずもメルヘンチックな構図だ。
そうして歩き出したのも束の間、「あっ……!」と声を上げてディーノが派手に転んだ。
当然のようにヒバリも巻き添えを食らい、左足をまともに打ち付けた。
「わ、悪りー!」
所謂天然というヤツか、それともケンカを売っているのか。
クラクラする頭で、ヒバリは真剣に考えてみた。