八月のある昼下がり。
赤毛の少女が一人、聖バビラ校の正門の前に佇んでいた。
×××
編入手続きのためにやってきて、もう10分以上は待たされている。
考えてみれば、応対に出たのは物慣れぬ様子の事務員だった。
ついていない。ニキータはうんざりと眉を寄せた。
目に染みるような青に、くっきりと白い雲のコントラスト。
夏の空だ。陽射しが強く、立っているだけでも汗ばんでくる午後1時。
光に濡れてぐったりとした庭の木々が、濃い色の葉を微かな風に任せていた。
俯いて地面を見ると、今年新調したばかりの慣れないサンダルが目に入る。
(これで良かったのかな、本当に)
遠方の女子校に二年間通い、馴染めず、耐えられなくなってやめた。
その事実は、ニキータの心に重くのしかかっている。
自分で選んだ道で挫折するなんて、有り得ないと思っていた。
逃げるのは臆病者だけ。そう信じていた。
(それなのに……)
ゆっくりと、長い溜息を吐く。
「暑くありませんか」
不意に人の声がして、思わず肩が震えた。
見ると、玄関口に、年の頃はニキータと同じくらいの少女が立っていた。
綺麗にまとめられた黒髪。
目を見張るほど白い肌。
優しく、思慮深さの伺える両の瞳。
咄嗟に返事ができずにいると、少女は鈴を振るような声でもう一度、
「暑くありませんか」と繰り返した。
「あ、はい、暑いですね」
何だか間抜けな返事だ。
少女はくすくすと笑ってから、今度は幾分親しげにこちらを見つめてきた。
「編入手続きを待っているんでしょう?」
「……そうだけど」
「外は暑いでしょう。どうぞ、入って」
思わぬ展開に呆気に取られたが、少女はただ微笑み、返事を待っている様子だった。
ニキータはおずおずと頷いた。
×××
少女に連れられて、校内に入った。
外の造りと同じく重々しい雰囲気だが、あまり気にならなかった。
それよりも、目の前を歩くこの少女の正体が気にかかる。
育ちの良さを伺わせる物腰。
女子校でもお目にかからなかったような美少女。
制服を着てはいるが、ただの一般生徒とも思えない。
(理事長の娘とか、そんなトコかな?)
ニキータが勝手な想像をしていると、少女は徐ろにある部屋の前で立ち止まった。
「ごめんなさい、事務の先生の慣れた方が代わってしまって、
手続きに時間がかかるそうなの。少しここで待ってもらってもいい?」
「あ、構わないよ」
ニキータはひらひらと手を振ってみせた。
少女は軽く頷きドアを開けると、自分は脇に控え、先に通るようニキータに促した。
「ええ……しなくていいのに、そんな……」
まさかこの美少女にその手の気遣いをされるとは思わず、ニキータはうろたえた。
「だって、お客様だもの」
少女は気にする風でもなく笑っている。見た目よりも茶目っ気があるらしい。
「じゃあ、お邪魔します……」
誰にともなく言って中に入る。
廊下とは打って変わり、事務的な、仕事部屋らしきところだった。
光がよく差し込み、全体的に白っぽい。
さして広くはない室内のほとんどを、五、六台の大きな机が占領している。
机の上には紙類が散在しているが、それがかえって清潔感を漂わせていた。
「散らかっているんだけど……ええと、そこのソファーにどうぞ、座って」
「ありがとう」
机の陰に隠れて見えないが、ソファーは窓際にあるらしい。
「あれ……?」
ソファーには先客がいた。帽子で顔を隠して、熟睡している様子だ。
男子生徒の制服だった。
「あら、ダンテったら……!」
少女は驚いたように駆け寄ってきて、寝ている少年の肩を揺さぶった。
「ダンテ、起きて……起きて……」
「別にいいよ、無理して起こさなくても」
そこまでソファーに座りたいわけでもない。
ニキータは口を挟んだが、少女は聞いていないようだった。
「……こら! 起きなさい!」
「うわっ!」
少女が突然大声を上げたので、ニキータは思わず後ずさった。
寝ていた少年も流石に飛び起きて、はずみでソファーから転がり落ちた。
「いって……あ、アンジェレッタ……」
「おはようダンテ、よく眠れた?」
少女はまた、穏やかな口調に戻っていた。
(アンジェレッタっていうのか……)
小さな天使。名前までも美しいと感心してしまう。
「そのソファーを、お客様に譲ってほしいの」
「お客様……? こいつ誰?」
指さされてむっとするのも束の間、アンジェレッタが彼をたしなめた。
「失礼でしょ、ダンテったら。新学期から編入する……あ、名前を聞いていなかったわね」
そういえば、まだ名乗っていなかった。
二人の視線を受け、ニキータは硬くなりながら答えた。
「ニキータ、だよ」
「よろしく、ニキータ。私はアンジェレッタ」
アンジェレッタの微笑みに、ニキータも笑みを返した。
「おいらはダンテ。よろしくな。……ていうか、すごいなお前。
ここの編入試験って難しいんだろ? それに通ったんだから、お前、頭いいんだ?」
「別に……編入だけが特別難しいなんて聞いてないけど」
「そうね……でも、編入試験の方が幾分か難しいんじゃないかしら」
二人は勝手に話を進め始めた。すっかり優等生扱いである。
「ちょっと……別にあたしはそんなんじゃ……」
しかし、終いまで言うことはできなかった。
「アンジェレッタにダンテ。何してるんだい?」
ドアの音と同時に、一人の少年が現れた。
×××
「ああ、アルフレド。何だ、意外と早かったんだな」
アルフレドと呼ばれた少年は、まあね、と言って笑った。
絵画に描かれるような見事な金髪が、日の光を淡く受け止める。
アンジェレッタに劣らず整った顔立ちだ。
「レクリエーションの件だけど、引継ぎは大体終わったんだ。あとは……」
そこでニキータの存在に気付き、彼は言葉を切った。
「ふふ、お客様が来てるのよ。私、何だか嬉しくて」
「そうか、君が……」
何か聞き及ぶことがあったのか、アルフレドはそれで納得したようだった。
綺麗に微笑みかけられて、ニキータはどぎまぎした。
「僕はアルフレド。よろしく、ニキータ」
「な、何で?」
どうして名前を知っているのだろう。驚いて言うと、ダンテが笑いながら口を挟んだ。
「この学校のことなら、アルフレドは何でも知ってるぜー。すっげえ地獄耳なんだ」
「人聞きが悪いな、仕事熱心なだけさ。ソファーで寝てた誰かさんと違って」
「……何で知ってるんだっ?」
それには答えず、アルフレドはニキータの方に向き直った。
「秋から編入する女生徒がいると、話には聞いてたんだ。
余計な心配かもしれないが、何か困ったことがあればここに来て僕たちに言うといい。
そのための生徒会なんだからね」
「……え?」
意外な単語に、ニキータは思わず聞き返した。
「生徒会……なのか?」
「あら、そうよ、何も説明していなかったわ」
アンジェレッタは思い出したように手を打った。
「アルフレドはこの学校の生徒会長、私は副会長、ダンテが会計なの。
そしてここが生徒会室」
「へえ、そうだったのかー……」
ニキータの思っていた生徒会は、もっと厳しい、規律ばかりを求めてくる集団たった。
しかし、目の前のアンジェレッタは先程からずっと親切にしてくれている。
「ニキータ、新学期から何か困ったことがあれば、本当にここに来ればいいのよ。
私でよかったら相談に乗るから」
そう言って見つめてくる瞳は、優しい色をしていた。
「ありがとう、アンジェレッタ……」
ニキータは素直に感謝した。
馴染むまでには時間がかかるだろうと思っていたが、早々に良い友達に巡り会えたようだ。
アルフレドは少女たちの様子を微笑ましげに見ていたが、不意に口を開いた。
「二キータ、今、時間はあるかい?」
「え……ああ、大丈夫だけど?」
答えながら、二キータは体が硬くなるのを感じた。
女子校にいて同じ年頃の少年としばらく縁がなかったためか、妙に意識してしまう。
それでなくとも、アルフレドは女の子の憧れそうな容姿をしていた。
二キータの動揺をよそに、彼は続けた。
「新学期が始まる前に、校内を見て回ったらどうかな。僕が案内するよ」
差し伸べられた手に、二キータはぎょっとして目を見開いた。
(……この手を取れってことか!?)
「そうね、それがいいわ。いってらっしゃい」
アンジェレッタの言葉に、二キータはさらに目を剥いた。
(何それ、じゃあコイツと二人きり!?)
「じゃあ、行こうか」
「いや、その、ええと……」
何と答えたものか。二キータが言葉に窮していると、ダンテが間延びした声を上げた。
「ところでさあ、アルフレド、さっき何か言いかけてなかったか?」
すると、アルフレドは、はっとした様子でダンテの方に向き直った。
「そう、レクリエーションの件だ。あとは生徒総会にかけて、委員を承認してもらう。
それが済んだら業者連絡だけど、これは委員の方に任せよう。……それとダンテ、
予算書は今どうなってる?」
「できてるぜ。これもあとは生徒総会に出すだけだ」
「分かった。それに、他校交流会の案内が来てるんだ。アンジェレッタ、行ってくれるかい?」
「ええ。じゃあ、案内書をもらっておくわね」
「あと、ロレンツォは……いないか」
「ロレンツォに用事なの? 何かあったの?」
「ああ、また苦情が来てるんだ……」
次々と連絡を交わす彼らに感心していると、ダンテがこっそりと二キータを小突いた。
「ほら、今のうちに行くぞ」
「え?」
「いいからいいから……」
半分押し出されるようにして廊下に出た。
部屋の中では、アルフレドとアンジェレッタがまだ何か話しているようだ。
ダンテはそっとドアを閉め、悪戯っ子らしい笑みを見せた。
「ふー、脱出成功! だな!」
「いいのか? 勝手に出てきたけど……」
「おいおい、何言ってんだよ。お前のためにやったんじゃないか」
ダンテは一息ついてから、からかうような調子で言った。
「あのままアルフレドと二人にされたら、困っただろ?」
「な……」
はっきり顔が赤くなったのだろう。ダンテは声を立てて笑った。
「ははっ……いやいや、分かるぜ。アイツ、何かこう、王子様的な雰囲気してるもんなー。
おまけに無意識にタラシだし」
「タラシ……」
「そ。自覚がないから手に負えないんだ。お前も気をつけろよ」
「……別にそんなんじゃないっ」
「まあまあ、隠さなくていいって」
知り合って間もないのに、ダンテはずいぶん遠慮がない。
腹を立てるべきところを、何故かかえって毒気を抜かれてしまった。
「ま、こうして会ったのも何かの縁だ。
いくつかこの学校のこと教えてやるから、覚えとくといいぜ」
話しながら、ダンテは歩き出した。二キータもつられて後を追った。
「まず、あの二人だけど、見て分かる通り、学校中の憧れの的だな。
見た目はああだし、成績もトップクラス。あと、家柄もすごいらしいぜ。
アルフレド・マルティーニと、アンジェレッタ・モントバーニっていってな。
ああ、実は従兄妹同士なんだ」
「へえ。そういえば少し似てるな」
二人とも、目元から賢そうな印象を受けた。そうか、従兄妹か。
「あとは……そうだな、ウチはテニスが結構強いんだ。おいらも入ってるんだけどな。
いいもんだぜー。たくさん応援が来るしな! あとは…」
ダンテは辺りを見回すと、急に真面目な顔つきになって声を潜めた。
「‘狼’には気を付けろよ。ま、おいらは悪い奴でもないと思ってるけど……」
「オオカミ?」
「そのうち分かるさ。……ほら、着いたぜ」
そう言われて顔を上げると、いつの間にか事務室の前に来ていた。
(案内してくれたのか……)
「そろそろ手続きの方も準備できてるだろ。じゃあな、おいらは戻るぜ?」
「ちょっと待って! あの……」
二キータは慌ててダンテを呼び止め、ありがとう、と早口に言った。
ダンテはニカッと笑い、どーいたしまして、と返して去っていった。
(生徒会……ね……)
ふっと笑みを浮かべながら、二キータは事務室のドアをノックした。