九月一日、新学期を迎える朝のこと、聖バビラ校は未だ静寂に包まれていた。
創立百余年を誇る学校のため、校舎の構えにも貫禄がある。
中でも古いのは旧図書館で、うっそうとした林に囲まれた妖しげな建物だ。
数年前に新図書館が建てられてからは、ただの物置になっている。
表向きは。
この洋館が‘狼’をトップとする不良少年たちのアジトであるというのは、
今や公然の秘密だった。
狼の異名を持つジョバンニは、今朝も旧図書館で過ごしていた。
物置であるはずの館内は、実際のところ、生活に事欠かないだけの設備が整えられている。
寝室が二部屋、さらにキッチンとシャワールーム。
もちろん、もとから備え付けてあったわけではない。ジョバンニによる改築である。
「おはよ、ジョバンニ……」
声を掛けたのはリナルドだ。狼一味のNO.2で、アジトに泊り込むことも多い。
眠い目を擦りつつ寝室から出てきた彼に、ジョバンニは少し驚いた。
というのも、リナルドは寝起きが悪く、平日も昼まで寝ているのが珍しくないからだった。
「何だ、今日は早いな。眠いならまだ寝てりゃいいじゃねえか」
んー、と唸りながら、リナルドは首を振った。男にしては長い髪がさらりと音をたてる。
「だって、腹減って寝てらんねえよ。何か食いたい。……眠いけど」
「……」
クールなのは外見だけ、寝ることと食べることしか頭にないリナルドだった。
「……とりあえず、シャワー浴びて目ェ覚ませ。食うのはその後だ」
リナルドは素直に従った。ジョバンニは軽く溜息を吐いた。
葉巻がまだ残っていたはずだ。上着のポケットを探り、一緒にライターも取り出す。
少し背を丸めて火を点け、朝日の差し込む窓際へ向かった。
正面口と同じ方角に張られた大窓で、人の少ない時間帯だけブラインドを上げるのだ。
ジョバンニは外に目を遣り、葉巻を口から離した。吐き出した煙が光の中に消えた。
登校時間まではまだ間がある。リナルドの使うシャワーの水音だけが響いていた。
(ん……?)
人の気配。見ると、一人の女生徒が林の向こうを通りかかったところだった。
こんな時間に何をしているのだろう。
そもそも、この学校の生徒は皆ジョバンニを恐れていて、旧図書館にはめったなことでは
近寄らないはずだ。
しかし、彼女は慣れない様子できょろきょろと辺りを見回し、この洋館を発見すると、
興味津々で近づいてきた。
(新入生だな、ありゃ)
ジョバンニやアジトのことを知らない、怖いもの知らずの行動に間違いない。
朝から新しい学校を探検しているのだろうか。
御苦労なことだ。ジョバンニは薄く笑みを浮かべた。
が、彼女の顔がはっきり見えた瞬間、思わず葉巻を取り落とした。
「……ニキータ」
幼馴染みの名を、掠れた声で呟く。
一瞬目を疑ったが、子供の頃からの腐れ縁だ、見間違うわけもない。
「アイツ、転校してきたのか……」
ジョバンニは眉を寄せ、じっとニキータの横顔を見つめた。
×××
始業式が終わり、新しいクラスが発表された。
普通なら、クラスメートや担任の良し悪しで一喜一憂するのだろうが、
転入したばかりのニキータには当然そんな感慨はない。
だが、今ぐるりと見回した限りでは、雰囲気のいいクラスだと思う。
理由は説明しにくいが、居心地がいい。何となく空気が柔らかいのだ。
「ねえ、あなた、転校生でしょ?」
話しかけられ、我に返った。
長い髪をした少女が、隣りの席からこちらに身を乗り出している。
ふっくらしたピンク色の頬で、健康的な印象だ。
「ああ、今日から転入してきたけど……何で分かったんだ?」
ニキータは逆に問い返した。
少女は真面目くさった顔で「私、カンがいいの」と答えたが、すぐに自分で笑い出した。
「嘘よ。単に、見かけない顔だと思って」
ニキータもつられて笑った。
楽に話せる相手のようだ。親愛の情をこめて「変なヤツ」と評してやった。
「あれっ、ニキータじゃん!」
男子生徒たちの輪の中心から、明るい声が響いた。
傍にいた少年たちを掻き分けるようにして、小柄なダンテが転がり出てきた。
「何だ、同じクラスだったんだな」
「ラッキーだな! 改めて、よろしくな!」
ダンテは何故か満面の笑みで、握手まで求めてきた。
大げさだと思って苦笑しつつも、ニキータはその手を握り返した。
「分からないことがあったら何でも言えよ。……そうだ、校舎の配置は分かってるか?
購買とか食堂とかの場所知らなかったら、下手すりゃ食いっぱぐれるぜ?」
一見ただ冗談を言っているようだが、ダンテはなかなか親切だった。
「大丈夫。今朝早くから来て、学校全体を回ってみたから」
「それなら心配ないな。……それよりお前、早速アニタに捕まったのか。災難だな」
隣りの席の少女を横目で見ながら、からかうようにダンテは言った。
アニタというのが彼女の名前らしい。
茶化されたアニタはむっとした表情で「どういう意味よ!」と食ってかかった。
「そのまんまの意味だって。いやホント、アニタには気をつけた方がいいぜー。
ここだけの話、アニタは実は破壊神なんだ。……なあ、ロミオ?」
ロミオと呼ばれた少年はくすくすと笑い声を漏らしていたが、無理に真面目な表情を作って
話に乗ってきた。
「うん、そうなんだよ。しょっちゅうケータイ壊しては、修理しろって言って僕のところに
持ってくるんだ」
「何よ、ちょっと機械が苦手なだけでしょ!」
三人は他愛もないことで盛り上がっている。
面白いので見ていると、ロミオがこちらの視線に気付き、人懐っこい笑顔を見せた。
「……ふざけてばっかりだけど、ダンテはすごく人付き合いが上手いんだ。
学年関係なしに友達がたくさんいるしね。人脈が広い、っていうのかな」
ダンテは照れくさそうに頬を掻いた。
ニキータはすっかり打ち解けて聞いていたが、ふとあることを思い付いた。
「……じゃあ、幼馴染みが2コ上にいるんだけど、ダンテは知ってるかもしれないな」
「へえ、2コ上か。名前聞いたら分かるかもしれないぜ」
人脈が広いというのは本当らしく、ダンテは自信ありげに言った。
「幼馴染みっていうか、兄貴に近い感覚なんだけど……ジョバンニって知ってるか?」
「「「……!」」」
一瞬にして教室内が静まった。
そして、一気にざわめきが走った。
「アイツ、狼と知り合いなのか……?」
「……あそこにいる転校生だろ? いや、何か兄貴とか言ってなかったか?」
「じゃあ、あの子、妹なの? 狼の……」
「ちょっと、皆、こそこそ話すのはやめなさいよ! 感じ悪いわよ!」
予想外の反応にニキータは困惑したが、すぐにアニタが強い調子で周囲を黙らせた。
「ええと、ジョバンニなら、旧図書館に行けば会えると思うよ」
「ロミオっ!」
一人だけ、臆するふうでもなく話し出したロミオを、ダンテが鋭く遮った。
わけが分からず見つめていると、ダンテは真剣な表情で振り向いた。
「いいか、ニキータ、旧図書館には絶対近づくな。絶対だぞ!」
「ああ、分かった……」
勢いに押されて頷いたものの、ニキータは釈然としなかった。
旧図書館に、何か秘密があるに違いない。確かめずにはいられない気持ちだった。
×××
「ジョバンニ」
廊下に出たところで、後ろから呼び止められた。
ジョバンニは立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
声で分かってはいたが、そこにいたのは、穏やかな笑みを浮かべたアルフレドだった。
じろりと見遣り、無言で用件を促す。アルフレドは全くひるまずに言った。
「旧図書館の本を借りたいんだけど、いいかな?」
「……珍しいな」
ジョバンニはニヤリと笑って歩き出した。アルフレドがその斜め後ろに続く。
並んで歩いていく二人に、他の生徒たちは恐れをなし、道を開けた。
校舎から出て林の近くまで、二人は一言も話さなかった。
旧図書館の前にたどり着いて、ジョバンニは漸く口を開いた。
「……で、何の用だ?」
本を借りるのなら、新図書館で事足りる。
旧図書館の本を借りたいなど、明らかに人目をはばかった口実だった。
「ちょっと気になる噂を耳にしたものだから、真相を確かめたくてね」
アルフレドは少しためらってから続けた。
「……狼に妹がいる、って」
ジョバンニは鼻で笑った。
その下らない噂なら、ジョバンニの耳にも届いていた。
そして、心当たりは一つしかない。
「ニキータは妹じゃねえ。ただの腐れ縁だ」
「やっぱり、あの子のことだったのか……」
転入してきたばかりのニキータのことを、アルフレドは既に知っているらしい。
いつものことながら、大した情報通だ。
「何で今になって転校したのか知らねえが、少なくとも俺は関わってねえ。
俺と顔見知りだってことは、アイツが自分で喋ったんだろう」
そのせいで学校中が騒いでいるようだ。全く、暇な連中だ。
「……お前、そんなことを訊いてどうする?」
ジョバンニはアルフレドの表情を探った。
この聡明な生徒会長が、どうでもいい兄妹説に振り回されるとも思えない。
わざわざ確かめにきたのは、何か思うところがあるからだろう。
アルフレドは俯きがちに視線をさまよわせたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「ただ、彼女が心配なんだ。このまま噂がエスカレートすると、マズいことになると思う。
……ニキータにとって」
「……」
言葉を選んではいるが、要するに‘狼と関係があると思われたら、ニキータはこの学校で
マトモな生活はできない’ということだ。
無遠慮と言えばそうだが、事実なので怒る気もない。
「転校早々、苦労するな。アイツも」
「笑い事じゃないだろう……」
「どっちにしろ、放っとくしかねえだろ。俺が動いても噂を煽るだけだ」
「……それはそうだけど」
アルフレドは深々と溜息を吐いた。
(それにしても、何でコイツはニキータのことなんか気に掛けてんだ?)
別に、ニキータがどうなろうが、彼には関係ないと思うのだが。
しかし、アルフレドのことだ、女が酷い目にあうのを黙って見ていられないのだろう。
――フェミニストというか、タラシというか。
誰もいないものと思って気を緩めていたが、突然、茂みの方から物音がした。
二人は不意を突かれて、さっと身をこわばらせた。
「誰だ、出て来い!」
音のした方を、思い切り怒鳴りつける。
すると、物音はぴたりとやみ、恐る恐るといった様子で相手が姿を現した。
ジョバンニは目を見開いた。
噂をすれば影、とはこのことか。現れたのはニキータだった。
怒鳴られて驚いたのだろう、心なしか身を縮めている。
「あ、ジョバンニ……あれ、アルフレドも……?」
妙な沈黙が流れた。
「……ええっと……久しぶり?」
ニキータは、言いながら小首を傾げた。
その仕草を見て、ジョバンニはふっと笑みを漏らした。
「ああ、久しぶりだな……」
「なっ、何で笑うんだよ!? ……アルフレドも!」
むきになって噛み付いてくるニキータを見て、また笑いがこみ上げてきた。
とりあえず、話は聞かれていないらしい。それに安心したのが一つだ。
二つ目は、ニキータの様子が至って普通で、噂を気に病んでいるふうでもなかったこと。
(……いらん心配をしたらしいな)
しかし、今日のところは何事もなかったとはいえ、この先もそうだとは言い切れない。
理不尽にも皆から恐れられ、敬遠されるようなことにでもなったら、やはり彼女が哀れだ。
一方、当のニキータは、こちらの思惑など知る由もなく、まだ憮然とした表情をしている。
「何なんだよ……ここに来ればジョバンニに会えるって聞いて、わざわざ来たっていうのに」
「……お前、もう俺とは関わるな」
ニキータは目を丸くした。
その隙に、肩に狙いを定めて、ジョバンニはニキータを突き飛ばした。小さく悲鳴が上がる。
「大丈夫か!? ジョバンニ、いきなり何を……!?」
予想通り、すんでのところでアルフレドがニキータを抱きとめた。
ニキータは真っ赤になった。突き飛ばされたことより、よほどショックが大きいらしい。
「アルフレド、お前、しばらくニキータを預かれよ」
二人は唖然とした表情だ。ジョバンニは構わず話を進めた。
「だから、生徒会でニキータを預かれよ。……確か、書記のポストが空いてんだろ?
丁度いいじゃねえか、コイツにやらせれば」
「はあ!? 勝手に何言って……!?」
ニキータは面白いくらいにうろたえている。
だが、アルフレドの方は、流石にジョバンニの意図に気付き「名案だね」と頷いた。
「分かったよ。責任持って預からせてもらう」
「アルフレドまで……! 何それ、あたしが生徒会に入るってこと!?」
信用の厚い生徒会役員ともなれば、不良の仲間と思われることもないだろう。
かなり乱暴なやり方ではあるが、噂を消すにはこれしかないように思われた。
(ニキータ、上手くやれよ)
ジョバンニはそのまま立ち去った。
ニキータはまだ何か言いかけていたが、アルフレドに笑顔で引き止められ、
声にならない叫びを上げた。