聖バビラ校7

 昨夜のうちに雪が降り積もり、外は一面の銀世界だった。身にしみる寒さの中で、心まで白く
 洗われる気がする。アンジェレッタは廊下に出て、窓の前で立ち止まった。
 裏庭を通って下校する生徒が一人、二人。辺りはいつになく静かだった。学期末なのだ。
 級友たちの大半はまだ教室に残って、休暇中の計画でも話しているのだろう。
 一方で、ここに来て忙しく活動中の役員もいる。様子見のため、生徒会室を訪れた。
 戸を開けると、何やら良い香りが漂ってきた。

「丁度、コーヒー淹れた所なんだ。味は保証しないけど」

 ニキータがポット片手にそう言った。隣りの給湯室を勝手に使っているらしい。
「頂くわ」と微笑して、戸棚から自分のカップを取り出した。

「秘書さん、俺にも一杯ちょうだい」
「誰が秘書だ、誰がっ」

 怒った顔をしながらちゃんと用意してやる辺り、彼女も律儀だ。
 ロレンツォは大きく伸びをして、そのまま椅子の背にどさりと倒れた。

「書記も秘書も似たようなもんだろ。何か書類繋がりで」

 罪のない笑顔で、いい加減なことを言う。

「……だからさー、この書類代わりにやってくんない?」
「断る!」

 まあ、気持ちは分からなくもない。ロレンツォの机には、書類が山積みにされているのだ。
 アンジェレッタはソファーに腰掛けて、コーヒーを一口飲んだ。

「ギリギリまで溜め込むからいけないのよ。小まめに整理しておけば良かったのに」
「うん……そうだな。全くもってその通りだ」

 ロレンツォが小さく溜息をつく。彼が今格闘しているのは、領収書の束だった。
 決算日までにこれらをまとめて提出しなければならない。提出先は会計のダンテだ。
 それとは別に、アルフレドが活動報告書のチェックを行う。
 学期末の恒例イベントだが、ロレンツォは毎回最後まで苦戦していた。

「領収書だけでも早く終わらせないと、ダンテがうるさいんだよなー」
「へえ、ダンテが?」
「この時期は、いつも以上に生き生きしてるのよ」

 彼はアルフレドと一緒に校内を回って、役員たちに決算の呼びかけをしているはずだ。
 要するに督促である。皆の提出が終わってやっと、自分が清書に取りかかる。
 一番忙しいのが会計だが、ダンテは喜んで仕事をしていた。
 根が働き者なのと、周囲をせっつくのが面白いらしい。

「その点、アルフレドは優しいから後回しでいいや」
「何それ。大丈夫か?」

 ニキータが眉をひそめる。コーヒーを飲み終えたアンジェレッタは、徐に立ち上がった。
 カップを洗って、そろそろ帰らなければ。

「アンジェレッタ、今日って定期健診の日じゃないのか?」

 ロレンツォが急に真面目な表情で言った。

「ええ、この後行くわ」
「早めに行った方がいい。最近風邪が流行って、夕方は特に混んでるぞ」

 普段は遊んでばかりの彼だが、病院のこととなると流石に詳しい。
 ニキータが意外そうに「よく知ってるな」と呟く。

「んー……自分の家のことだから」
「ロレンツォの家は病院なの」

 横からそう説明する。彼の父はアンジェレッタの主治医で、この街に病院を構えていた。
 カセラ先生といって、腕がいいのはもちろん、優しい人柄で信頼できる。
 ロレンツォは話題に深入りせず、優雅にカップを傾けた。

「うん、旨いよ」
「……それなら良かった」

 ニキータは照れ臭そうに言って、それからアンジェレッタの方を振り向いた。

「急ぐんだろ? 適当に片付けとくから、帰っていいよ」
「ありがとう。ロレンツォの面倒をよろしくね」

 彼女の気遣いに感謝しながら、生徒会室を後にした。



 アンジェレッタは外に出て、正門に向かった。歩く度に雪が微かな音を立てる。
 しんしんと足が冷えた。風邪でもひいたら、この寒さできっと長引くだろう。
 そんなことを考えていると、一人の男子生徒が芝生を突っ切り、転がるように駆けてきた。

「うわっ……!」

 彼はアンジェレッタの肩にぶつかったがそれでも止まらず、雪の中にダイブした。
 かと思えばぴょこんと飛び起きて、すみません、と謝る。

「ロミオ、大丈夫……?」
「あれ、アンジェレッタだったのか」

 ロミオは雪まみれになった体をはたいて、こちらに駆け寄ってきた。
 派手に転んだ割には、幸い怪我はないようだ。

「今、寮の皆で雪掻きしてたんだ」
「そうだったの。お疲れ様」
「大変だけど楽しいよ。雪って綺麗だし」

 確かに、彼が無邪気に雪と戯れる様は容易に想像できる。
 何だか楽しくなって、アンジェレッタはくすくすと笑った。

「そんなにおかしいかな……」
「ううん、違うの。ただ、ロミオと初めて会った時のことを思い出して」

 茶色い髪の上で、一滴の雫が光る。見つめ合うと、今では少しだけ彼の方が背が高い。
 あれは二年前、やはり雪が積もった日のことだった。


×××


 ロミオが一年生の時だった。その日は階段で足を滑らせ、運悪く突き指してしまった。
 右手の人差し指だ。昼になっても痛みが引かない。
 保健室に行こうか迷っていると、友人のダンテがやって来た。

「ロミオ、指の具合はどうだ?」
「うーん……どうなんだろ」

 ロミオはためらいつつも、青く変色した指を見せた。

「ひゃー、酷く腫れたもんだな。これ絶対折れてるぜ」
「やっぱりそう思う?」

 自分の指を見つめながら、ロミオは憂鬱だった。ただの突き指だと思っていたのに。
 骨折とは面倒なことになったものだ。

「病院行った方がいいんじゃないか?」
「でも、まだ授業あるから……」
「早退しちまえよ。五時間目って体育だろ。どうせお前、見学だし」

 早めに治療するのが一番だぜ、と後押しされて、ロミオも決心が付いた。
 ダンテの言う通り、どっちにしろ体育に出るのは無理だ。

「分かった、今から病院行くよ。先生にそう伝えといて」
「ああ。部活の方にも、ちゃんと言っとくからな」

 ロミオはこくんと頷き、帰り支度を始めた。



 教室を出た後も、ロミオはまだ迷っていた。まっすぐ病院に行くべきか否か。
 しばらく悩んでから、ひとまず保健室に行くことにした。
 ひょっとしたら大した怪我じゃなくて、保健室の治療で十分かもしれない。
 病院に行けば、カセラ先生に余計な心配をかけてしまう。それはなるべく避けたかった。

 ぼうっと考え事をしながら保健室に来て、ロミオはノックもせずに戸を開けた。
 ふと、中にいた生徒と目が合う。彼女はこちらを向いて、ブラウスの前を留めている最中だった。
 ――着替え中だったのだ。

「ご……ごめんなさい!」

 状況を把握するや、ロミオは真っ赤になって戸を閉めた。今更のように汗が噴き出す。
 心臓の音が聞こえるようだ。自分は一体、何をやってるんだろう。
 咄嗟のことで何も見えはしなかったのだが、ロミオは動揺しきっていた。

「どうぞ」

 扉の向こうから、鈴を転がすような声がした。

「どうぞ、もう終わりましたから」

 ロミオは恐る恐る戸を開けた。室内は暖かい。黒髪の少女が一人、ストーブの前に立っている。
 思わず息を呑むほどの美しさだ。まじまじと見つめていると、少女は優しく微笑んだ。

「保健の先生は用事があって、ついさっき帰られたの」
「そ、そうなんだ……」

 ここで治療できないなら、やはり病院に行くしかない。
 少女も早退するのだろうか、鞄に荷物をまとめている。
 不意に足がふら付いたので、ロミオは慌ててその体を支えた。触れた肌が、熱い。

「熱があるの?」

 思わずそう尋ねると、少女は静かに頷いた。

「大丈夫よ。今から病院に行くから」
「送って行くよ」

 少女は驚いたように目を見開いた。それもそうだろう、たった今出会ったばかりなのだから。
 しかし、ロミオは臆せずにっこりと笑った。

「僕も病院に用があるんだ。それに、君と仲良くなりたいし」

 特に格好付けるでもなく、ただ正直な気持ちで言う。
 少女は両の瞳でじっとロミオを見つめていたが、やがて花のような笑顔を見せた。

「私はアンジェレッタ。二年生よ。あなたは?」
「僕は一年のロミオ。よろしく!」

 指を怪我しているので、握手はしなかった。気のせいか、痛みも少しは和らいだようだ。
 保健室横の扉から直接外に出た。校庭は雪に覆われて真っ白だった。
 新鮮な光景だ。知らない場所に来たみたいでわくわくする。

「今日はよく積もったよね。帰ったら雪だるま作ろうかな」

 そう言って振り向くと、アンジェレッタは何故か顔を曇らせていた。

「……えっと、どうかした?」
「ロミオ、何だか寒そう」

 心配そうにそっと呟く。ロミオはどきんと胸が高鳴るのを感じた。
 彼女が温かそうなコートを着ているのに対し、ロミオは手袋すら着けていなかったのだ。
 というより、防寒具の類は持っていない。家が貧しいためである。

「平気だよ。僕、寒さには強いんだ」

 元気よく答えたものの、続けざまにくしゃみをしてしまった。これでは話にならない。
 おろおろと言い訳を考えていると、アンジェレッタは不意に立ち止まった。

「少しだけ目を閉じて」

 ロミオは言われるままに目を閉じた。首の回りにふんわりしたものが触れる。
 マフラーだった。アンジェレッタが自分のを貸してくれたのだ。

「温かくなった?」
「こんな……悪いよ。君だって熱があるのに……」

 アンジェレッタは笑って首を振った。彼女の優しい目を見ていると、甘えたい気分になってくる。
 ロミオは黙って、マフラーの柔らかさに触れてみた。



 アンジェレッタは何のてらいもなく、自分が病気がちであることを打ち明けた。
 今日のように早退する日もある。それでも、彼女は学校生活を楽しんでいた。
 たまに体調を崩すこともあるが、主治医の先生に診てもらえば心配いらないのだという。

「じゃあ、君もカセラ先生を知ってるの?」

 アンジェレッタの口からカセラ先生の話が出たので、ロミオは驚いて聞き返した。

「ずっと前からお世話になってるの。ロミオも……?」
「カセラ先生は、僕にとっても恩人なんだ」

 ロミオが聖バビラ校に入学できたのは、彼のお陰なのだ。
 経済的に進学を断念しようとしていた所を、援助してくれたのがカセラ先生だった。
 その額は相当なものだが、大人になってから返せば良いとのこと。
 同郷のよしみで、本当に良くしてもらっている。

「こっちでは寮に入ってるんだ。友達もいっぱいできたよ」

 寮での共同生活はロミオにとって物珍しく、とても楽しかった。
 故郷のソノーニョ村も大好きだけれど、やはりこっちに来れたのは幸運だ。

「学校の裏にある寮のことね。とてもいい所だって、聞いたことはあるわ」
「隣りの部屋の子が面白くてさ。ダンテっていって、部活も同じなんだけどね」

 ダンテはやたらと舌の回るお調子者で、一緒にいて飽きることがない。
 何となく世慣れした雰囲気もあり、同い年ながら色々と世話を焼いてくれる。
 ロミオがあまりにも世間知らずなので、見ていられないらしい。実際、否定できないが。
 信号が赤に変わった。ロミオは軽くスキップしてから、くるりと振り向いた。

「君も一度遊びに来ない? 皆、きっと大歓迎だよ!」

 これを機に友達になりたい。素直にそう思ったのだ。
 優しく綺麗なアンジェレッタ。もっと話をしてみたい。
 友好の証に手を差し出した。途端に、アンジェレッタが驚いた顔をする。

「……ケガしてたのね」

 しまったと思って引っ込めたが、もう遅い。気を遣わせたくなかったのに。
 すると、冷えた指先を温めるように、アンジェレッタはそっとロミオの手に触れた。

「カセラ先生に診てもらえば、すぐに良くなるわ」

 心臓が大きく揺れたような気がした。掠れた声で「……そうだね」とだけ答える。
 タイミング良く、信号が青になった。

「行きましょう」

 ロミオはどこかふわふわする頭で、雪の上を歩き出した。


×××


 あれからずっと、アンジェレッタは大事な友達だ。
 学年が違うので、顔を合わせることは少ないが、たまに会えば話が弾む。

「あの時貸してもらったマフラー、洗うべきか迷ったんだよ。でも傷むといけないから、結局
日干しして返したっけ」
「お日様の匂いがしたけど、気のせいじゃなかったのね」

 アンジェレッタは楽しそうに言うが、笑い事ではなかったのだ。
 手洗いをするべきか、洗剤は何を使うべきかと散々悩んで、ダンテにすっかり呆れられた。
 今となってはいい思い出だ。

「今日も送って行きたいけど、部活のミーティングがあるんだ」
「そう、寒いけど頑張ってね」

 アンジェレッタはこれから、定期健診に行くという。
 華奢な後ろ姿を見送っていると、ふと彼女は振り向いた。

「ロミオ、そのコートとても似合ってるわ」

 そういえば、今日は真新しい紺のコートを着ていたのだった。ロミオは照れて頭をかいた。

「カセラ先生が買って下さったんだ。先週、寮に届いたばかりで」

 学費のことだけでもありがたいのに、細かい所まで気にかけてもらっている。
 まるで、本当の親のようだ。

「……お礼を言いに行きたいけど、まだ電話でしか言ってないよ。アンジェレッタ、今日会ったら
よろしく伝えてくれる?」

 部活のため時間が取れず、なかなか会いに行けないのだ。恩のある人に対して申し訳ない。
 アンジェレッタは「もちろんよ」と優しく答えた。

「ありがとう! ロレンツォにも伝言頼んだけど、全然当てにならないんだ」

 ロレンツォはこの話題になると、あまり乗ってこないのだ。
 聞いているのかいないのか、曖昧な返答しかしてくれない。
 身内のことだけに、彼も照れ臭いのだろうか。

「今日はロレンツォもダンテもいなくて、部活は大変でしょう?」
「うん、でもミーティングだけだよ。この雪だからね」

 もう学期末だ。生徒たちは思い思いに忙しくしている。
 再び降り始めた雪の中、二人は手を振って、それぞれの方向に別れた。
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