聖バビラ校6

 四限終了の鐘が鳴る。ニキータは急いで最後の数式を写してから、ノートを閉じた。
 この授業は板書が速くて、書き写すのに一苦労だ。手が痛い。
 指を曲げたり伸ばしたりしていると、アニタが弁当包みを持ってやって来た。

「ニキータ、一緒に御飯食べない?」
「えっと……」

 ニキータは口ごもり、周囲に視線を走らせた。幸い、側にダンテの姿はない。

「ゴメン、ちょっと生徒会の仕事があって」
「そう……やっぱり役員って大変ね」

 首を傾げつつも、アニタはしみじみと言った。そう感心されると何だか気まずい。
 ニキータは曖昧に笑って見せた。

「ちゃんと何か食べなきゃダメよ。頑張って!」

 景気付けに、ぽんと肩を叩かれる。後ろめたさを感じながら、ニキータは教室を後にした。
 生徒会の仕事というのは口実だ。昼休み中に、確かめたいことがあったのだ。



 昨日の放課後。ニキータはいつも通り、まっすぐ生徒会室に向かった。
 特に用事でもない限り、三役は大抵顔を出す。ダンテも部活の合間に、積極的に参加する。
 程よい緊張感が好ましい。入ったきっかけはどうあれ、生徒会は居心地のいい場所だった。
 部屋は既に電気が点いていた。そっとドアを開けると、中から話し声が聞こえた。

「下級生を狙った恐喝事件、か……」
「ミカエルっていう、テニス部の後輩が教えてくれたんだ。もう何人も被害に遭ってるらしい」

 何やら不穏な内容だ。ダンテが悔しそうに机を叩く。

「畜生……見損なったぜ、狼の奴……!」
「いや、多分彼は関わってないよ。ジョバンニはそんな奴じゃない」

 ジョバンニの名前を聞いて、思わず前に進み出た。はっとした様子で、二人が顔を上げる。
 初めて、ニキータの存在に気付いたらしい。

「ニ、ニキータ……来てたのか」
「さっきからそこにいたよ。それより、何の話?」
「あー……」

 ダンテは頭をかきながら、アルフレドの方を見た。

「……何でもないんだ。気にしないで」

 優しく言ってから、アルフレドは微笑した。ニキータはふいっと目を逸らした。
 この顔を見ていると、何だか逆らえない気分になる。美形は得だ。
 あくまでもごまかすつもりなら、これ以上訊いても無駄だろう。ここは諦めるしかなかった。



(ジョバンニが、下級生を恐喝……?)

 昨日の話を総合すると、大体そういうことらしい。しかし、ニキータには信じられなかった。
 ジョバンニはあれで、プライドの高い男だ。下らない真似を何より嫌う。
 具体的に何があったか、詳しい事情を知りたかったが、教えてくれないなら仕方ない。
 本人に直接話を聞こうと、旧図書館を訪れた。

 とはいえ、いざ洋館の前まで来ると、中に入るのはためらわれた。威圧感のある建物なのだ。
 深呼吸をして、ドアと向き合う。ジョバンニが不良と呼ばれていることは知っていた。
 ――構うもんか。こっちは子供の頃からの仲なんだから。
 ノックすると、思いがけず別の少年が現れた。欠伸しながら、気怠けに「何か用?」と訊く。

「あ……ジョバンニに会いに来たんだけど」

 彼は頷き、くるりと中に引き返した。ついて来いということらしい。
 恐る恐る足を踏み入れると、思ったより明るい内装だった。本棚の向こうに人影が見える。

「ジョバンニ、お客さんだぜ」

 とりあえず、「久しぶり……」と声をかける。
 ジョバンニは驚いた顔をしたが、すぐにいつものポーカーフェイスに戻った。

「ここには来るなと言ったはずだ」

 ニキータの方など見もせずに、灰皿に葉巻を押し付ける。

「……アンタに話があって来たんだ」
「話すことなんか何もねえ」

 取り付く島もないとはこのことか。
 ジョバンニは胸元から新しい葉巻を取り出し、ライターで火を点けた。

「お前は生徒会の仕事だけしてりゃいい。俺とは関わるな。分かったらさっさと帰れ」

 それは一方的な、もはや命令だった。彼は彼で、まともに相手をする気はないらしい。
 ニキータは腹が立ってきた。つかつかと歩み寄り、彼の手から葉巻を叩き落とす。

「そう簡単に帰るもんか! アンタにそこまで指図される覚えはない!」

 初めて、ジョバンニがこちらを振り向いた。ぎろりと睨まれたが、負けじと睨み返す。
 緊迫した空気の中、不意にクスクスと笑い声が漏れた。

「指図される覚えはない、か……。これじゃ狼も形無しだな」

 さっきの、案内してくれた少年だ。何がそんなにおかしいのか、ひたすら笑い続けている。
 アンニュイな印象が一転して幼くなった。

「……うるせえ。大人しく昼寝でもしてろ」

 ジョバンニが渋い顔で言うのも構わず、少年はちらりとニキータを見遣った。

「話くらい聞いてやれよ。面白そうじゃん」

 妙な所で味方を得て、ニキータは呆気に取られていた。
 溜息をつきながら、ジョバンニは葉巻を踏み消した。


×××


 午後四時半、ニキータはガッレリアを抜けて、小さな通りを歩いていた。
 用があるなら放課後、校外の喫茶店に来いと言う。
 わざわざ面倒な指定をするのは、人目を避けるためだろう。お陰で、生徒会をサボってしまった。
 皆に呆れられたかもしれない。明日、きちんと謝ろう。

 道は間違ってないはずだが、指定の店はなかなか見つからなかった。
 もう一度注意して見て回ると、文字の消えかかった小さな看板が目に入る。
 これが喫茶‘山猫’か。店自体は路地の中の、引っ込んだ場所にあるようだ。

(分かりにくい店だなー……)

 店内は薄暗く静かで、出迎える店員もいなかった。勝手に座れということらしい。
 きょろきょろ見回すと、「ニキータ」と呼ぶ声がした。ジョバンニではない。
 あの、不思議な少年の方だ。

「……ジョバンニは?」
「少し遅れるって。とりあえず座れよ」

 ニキータは言われるまま腰掛け、鞄を下ろした。店員が注文を取りにやって来る。

「じゃあ、コーヒーを」
「俺はホットミルク」

 意外な注文に驚き、ニキータはまじまじと少年の顔を見つめた。
 彼は暢気そうに頬杖を付き、薄く目を閉じた。このまま眠ってしまうそうな雰囲気だ。
 ニキータは少し迷ってから、思いきって「あのさ」と話しかけた。

「リナルド」
「え?」
「名前、リナルドっていうんだ」

 ゆっくりと瞬きしながら、彼は呟くように言った。動作は緩慢なのに凄みがある。
 ニキータは勢いに押されて頷いた。

「……リナルド、ジョバンニはどこ行ったんだ?」
「さあ……どっかでケンカでもしてるんじゃねえの」

 リナルドはあっさりそんな事を言う。

「それって……大丈夫なのか!?」
「大丈夫、ジョバンニは負けねえよ」

 そういう問題ではない。なおも口を開きかけた時、店の戸が開く音がした。
 ジョバンニだ。彼は中に入るなり、まっすぐこちらに近付いてきた。

「先に注文済ませたぜ」

 ジョバンニは腰を下ろしてから「ああ」と答えた。鞄も何も持たず、手ぶらである。
 ニキータは黙って彼の顔を見つめた。



「お前が気にしてんのは、リオとタキオーニのことか」

 椅子に深々と身を沈めて、ジョバンニはそう切り出した。

「リオとタキオーニ?」
「チビ共から金を巻き上げてるって話だ。真相を確かめに来たんだろ?」

 図星だった。やはり、ジョバンニは無関係だったのか。真犯人は二人組らしい。
 何を思ったか、ジョバンニは軽く溜息をついた。

「……お前を偵察に寄越すとはな。アルフレドは何考えてやがる」
「ア、アルフレドは関係ない!」

 むきになって、つい大声が出てしまった。タイミング悪く、注文の品が運ばれてくる。
 ニキータは俯き、赤くなった顔を隠した。

「あたしは、ジョバンニが犯人かもしれないって聞いて……気になって……」

 両手をカップに添えて、褐色の表面に視線を落とす。
 すると、ジョバンニは心なしか伏し目がちに眉を寄せた。

「確かに、奴らは俺の手下だ。俺にもそれなりに責任はある」
「責任……」

 重い言葉だ。不良のトップとしての言葉である。初めて、彼のことを少し怖いと思った。

「そいつらを、止めることはできないの?」
「止めて欲しいのか」

 静かな問いかけ。ニキータははっきりと頷いた。

「ジョバンニが犯人だなんて思われるの、嫌なんだ。それで疑いが晴れるなら……」

 膝の上でぎゅっと手を握る。しばし沈黙が流れた。
 すると、リナルドが突然身を乗り出してきて、ひょいと何かを取り上げた。

「砂糖とミルク、入れないなら貰うぜ?」
「ちょ……何すんだよ! ていうか、ミルクにミルク入れるって……!」

 止める暇もなく、彼はホットミルクの中に砂糖とミルクを入れてしまった。

「有り得ない……」
「気にするな、こういう奴だ」

 慣れているのか、ジョバンニは特に驚きもしない。
 脱力しているニキータを置いて、彼はさっさと立ち上がった。

「言いたいことは分かった。勘定はここに置いとくぜ」

 そう言われて、ニキータは我に返った。話がまだ中途なままだ。
 しかし、ジョバンニはニヤリと笑い、振り向かずに去って行った。


×××


 アルフレドは生徒会室の時計を見上げた。五時十五分。落ち着かず、今度は窓の外を見る。
 既にいつもの面々は集まっているはずの時間だった。

「珍しいわね、ニキータが来ないなんて」

 風邪気味なのか、アンジェレッタが掠れた声で言った。心配そうに小首を傾げている。
 確かに、連絡もなしに遅れるのは妙だ。

「……病気かしら」
「いや、学校には普通に来てたぜ。急用でもできたんじゃないか?」

 二人が話すのを聞きながら、アルフレドはふと考え込んだ。

「……ひょっとしたら、ジョバンニに会いに行ったのかもしれない」
「え?」

 アンジェレッタがびっくりした顔で聞き返した。
 一方、ダンテは思い当たったようにあっと声を上げた。

「そうか! アイツ、昨日の話聞いて……!」

 例の恐喝事件について話していたのを、彼女は偶然聞いてしまったのだ。
 何とかその場は取り繕ったが、彼女の性格からいって、大人しくごまかされるわけがない。
 ――早く気付くべきだった。

「じゃあ、旧図書館か!」

 そう言うなり、ダンテは外へ駆け出した。不安な気持ちに押されて、アルフレドも後を追う。
 アンジェレッタまでも、少し遅れながら懸命について来た。
 生徒会の三人が廊下を全力疾走しているので、すれ違った生徒は唖然とした様子だ。
 校舎の外に出れば、もう見咎められることもない。
 ダンテはさらにスピードを上げて、いち早く旧図書館の玄関へと駆け上がった。

「ダメだ、鍵がかかってる」

 舌打ちしてから、ダンテは激しく戸を叩き始めた。

「ニキータ! いるなら返事しろ!」
「よせダンテ、下手に騒ぐと危ない」

 注意深く辺りを見回す。幸い、近くに狼の仲間はいないようだった。旧図書館も電気が消えて、
 静まり返っている。ジョバンニは恐らく、人目に付く場所を避けたのだろう。
 簡単には居場所を突き止められそうにない。

「ここから先は、僕一人でやるよ」

 あれこれ考えた末そう告げると、案の定ダンテは目を剥いた。

「何言ってんだ、おいらだって……!」
「君はアンジェレッタを連れて戻ってくれ」

 アルフレドは静かに従妹の黒髪を撫でた。急に走ったせいか、アンジェレッタは苦しげに
 手すりにもたれている。ダンテも流石に驚いて、こちらに駆け寄ってきた。

「だ、大丈夫か!?」
「大丈夫……ちょっと息が切れただけ……」

 弱々しく微笑するが、どことなく顔色が悪かった。すぐにでも休ませてやるべきだろう。
 ダンテはアンジェレッタの体を支えながら、神妙な顔で振り向いた。

「……分かった。そっちは任せたぜ」
「ああ、アンジェレッタを頼む」

 二人は温かい室内に帰っていく。アルフレドは白い息を吐き、じっとそれを見送った。



(旧図書館にいないとなると……他にジョバンニの行きそうな場所は……)

 ――駄目だ、見当も付かない。この学校のことなら何でも知っていると言われるアルフレドでも、
 狼たちの実態は分からなかった。
 一つだけ言えるのは、ジョバンニが絶対的な権力を持っているということ。
 ニキータとは幼馴染みだという。彼女に危害を加えるとは思えないが、それでも気がかりだ。
 不意に背後で物音がした。アルフレドははっとして身構えた。

「お前か。こんな所で何してる」

 現れたのはジョバンニだった。まじまじとその顔を見つめてから、アルフレドは口を開いた。

「……ニキータを探してるんだ」
「さっきまで一緒にいたぜ」

 ジョバンニは事もなげに言って頭をかいた。

「下らんことに時間を使うなと言っとけ。アイツ、今日はサボリなんだろ?」

 どうやら彼女は無事らしい。ひとまず、ほっと息を吐く。
 そんなアルフレドを横目で見て、ジョバンニは肩をすくめた。

「山猫っていう喫茶店だ」
「……ありがとう!」

 礼を言ってから、アルフレドは校外に飛び出した。目立たない店だが、場所は知っている。
 わざわざ学校内を避けたのだと分かって、今更のようにその危険性を感じた。
 ニキータは本当に、単身で狼の許に乗り込んだのか。

(迂闊だった……彼女の前で、あんな話をするなんて)

 ジョバンニの名前が挙がったのを聞いて、黙ってはいられなかったのだろう。
 ――悪いことをしてしまった。
 文字の消えかかった看板の前でようやく立ち止まる。店の方から、何やら話し声が聞こえてきた。



「結局、ここはジョバンニのおごりか……」
「気にしなくていいと思うぜ」

 顔を上げた拍子に目が合った。呆然とした顔で、「アルフレド……」と彼女が呟く。
 隣りにいるのは、狼の仲間のリナルドだ。彼は二人の顔を見比べて、人の悪い笑みを浮かべた。

「俺はここで退散するから。ごゆっくり」

 ニキータは黙って、決まり悪そうにこちらを見つめていた。
 短い赤毛が、吹き付ける風にさらりと揺れた。

「あのっ……ゴメン。仕事サボったりして……」

 謝る彼女を遮って、思わずその細い肩を抱く。

「……ニキータ、無事で良かった」

 危険な目に遭ってなくて、本当に良かった。心からそう思う。
 綺麗な翠色の眼に微笑みかけると、ニキータはさあっと頬を染めた。
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