いよいよ体育祭当日。パン、という空砲と共に、生徒たちの歓声が空に響く。
仲間の熱い声援を受けて、ロミオは汗を光らせながらコースを駆けた。
誰よりも速く、それでいてのびのびと。
しなやかな筋肉に恵まれた体は、もう止まる気がしなかった。
スタンドに戻ると、クラスメートが総立ちでロミオを迎えた。
「ロミオ、お疲れ!」
「やっぱりすごいな、お前」
髪やら肩やらをぐしゃぐしゃにされる。
笑いながら逃げていると、後ろから小さな影が飛び付いてきた。
「アンカーはロミオに任せて正解だったな。何たってゴボウ抜きだもんなー」
ダンテはふざけて、ロミオの頭を数回叩いた。
「やめろってばダンテ! ギブギブ!」
そう言って降参すると、クラスからどっと笑いが起こった。
「さあ、しっかり休憩して、午後からの戦いに備えないとな」
「そうだね。勝負はこれからなんだし」
ペットボトルの水を一口飲んで、ダンテがスタンドに腰を下ろす。ロミオもその隣りに座った。
「何言ってんだロミオ、お前のことだぜ」
「え……僕?」
「そ。我らの勝利は、お前のその足にかかってんだから」
きょとんとして見返した。ダンテは真面目くさった顔をしている。
「またそんな……」
大げさなことを言って、からかっているのだろう。お調子者で面白い。
椅子に腰掛けたまま伸びをすると、彼は突然、驚いたように瞬きをした。
「……おい、足から血が出てるぞ」
ダンテの言う通り、右の膝から血がダラダラと流れ出していた。
「わっ……どうしたんだろ」
「自分で気付かなかったのか?」
少し考えてから、ロミオは「あっ」と声を上げた。
「リレーの前に、人込みに押されて転んだんだ。多分その時……」
「じゃあ、ケガした足であれだけ走ったのか!」
ダンテは妙に感心した様子だった。
「とにかく、傷口洗ってこいよ。そういうのは、早めに治療するのが一番だ」
確かにそうだ。それに、午後からの種目に差し障りがあってはマズい。
軽いケガでも用心しておこう。ロミオは保健室に向かった。
林の辺りまでやって来た時、制服姿の生徒を見かけた。
「あれっ、ジョバンニ?」
旧図書館のすぐ近く、ここは彼らの縄張りだ。丁度、アジトに戻るところだったのだろう。
当然のように、体育祭には参加していないらしい。
「ロミオか。今日のヒーローが、こんな所で何してんだ?」
一瞬、何のことかと思ったが、さっきのリレーの話だと分かった。
「ケガしたから、保健室に行こうと思って……」
意外な相手に褒められて、何だかくすぐったい。
照れ隠しに頬をかくと、ジョバンニはちらっとケガした足を見た。
「保健室なら、鍵が掛かってたぜ」
「え、そうなの?」
待機しているはずの委員は、どこへ行ってしまったのだろう。
(あ……保健委員って、ロレンツォだ)
ロミオは状況を理解した。大方、サボリ癖のあるロレンツォが、仕事を放り出したのだ。
こうなれば、水道で洗って済ませよう。治療は諦めるしかない。
「そういえば、ジョバンニの仲間は元気? えっと、タキオーニとかファウスティーノとか」
この学校の不良という不良は、ジョバンニのことをリーダーとして慕っている。
複雑な力関係も存在するようだが、外の人間から見れば、彼らはまとめて‘狼の仲間’だった。
「さあな。少なくとも、お前みたいにケガはしてねえ」
「リナルドは?」
「アイツはまだ部屋で寝てる」
ロミオは声を立てて笑った。
以前焼きそばパンをあげたリナルドのように、狼一味にも憎めない奴は多い。
「じゃあ、そろそろ行くよ。またね」
傷口を洗ったら、早めにグラウンドに戻らなければ。ロミオは手を振り、ジョバンニと別れた。
×××
陽射しが強い。アルフレドは手をかざして、澄んだ青空を見上げた。
天気が良くて何よりだ。体育祭で雨が降ると、生徒たちのモチベーションは上がらないし、
委員の仕事も煩雑になる。
テントでは点数の集計が行われていた。中に入ろうとして、ふと足を止める。
「ちょっとしみるけど、ガマンしてねー」
救急箱を持った少女が、テント横でケガの手当てをしていた。
「はい、これでもう大丈夫よ」
指の切り傷を消毒し、テープを巻いてやる。
ケガした子は礼を言って、付き添いの友人と一緒に去って行った。
「保健の仕事にも慣れたみたいだね、ビアンカ」
「お兄ちゃん」
救急箱を抱えてから、ビアンカはこちらに駆け寄ってきた。
「今日は忙しいんでしょ? でも休憩は取らなきゃダメよ。あ、昼ご飯はちゃんと食べたの?」
会って早々これだ。アルフレドは苦笑し、「心配しなくても大丈夫」と答えた。
全く、彼女には頭が上がらない。
「ビアンカこそ、外回りの仕事で大変そうだな。保健室で待機しておけばいいのに」
「嫌よ。皆がグラウンドに出てるのに、一人だけ校舎にいるなんて寂しいもの。
保健室には鍵を掛けてきたわ」
ビアンカはあっさり言って、ポケットから鍵を取り出した。
(今、保健室は誰もいないのか……)
それでは、治療してもらおうと校舎まで来た生徒は、骨折り損になってしまう。
迂闊なことをしたものだ。アルフレドは顔を曇らせた。
かといって、妹ばかりを責める気にはなれない。本来、働くべきはビアンカではないのだから。
「ロレンツォは一緒じゃないのか」
「そう、あの人ったら信じられないわ! 新米の私に全部押し付けて、自分はほとんど
保健室にいないのよ。今度こそ、ぴしゃりと言ってやるんだから!」
ロレンツォは放浪癖があって、目を離すとすぐに姿を消してしまう。
部屋でじっとしているのが苦手らしい。決して、悪い人間ではないのだが。
「お兄ちゃんも、同じ生徒会メンバーなんだから何とかしてよ」
思いがけず、とばっちりを受けてしまった。
「ああ……うん、注意しておく」
ビアンカは最後にもう一度、「絶対よ」と念押した。
言い出したら聞かない性格なのだ。一体誰に似たのだろう。
亡くなった両親はどちらも、温厚な人柄だったはず。アルフレドは真剣に考え込んだ。
昼休みの注意事項について、アナウンスが流れる。
たくさんのコードを踏まないよう注意しながら、アルフレドはテント内に入った。
パイプ椅子が無駄にスペースを占めている。委員用の椅子なのだが、本番で皆緊張し
座れるような雰囲気ではないので、ただそこに置いてあるのだった。
「すいませーん、ちょっと通して」
聞き覚えのある声だ。反射的に目を向ける。人の間を縫って、ほどなくダンテが現れた。
「なあアルフレド、ロミオ見なかったか?」
開口一番に、ダンテはそう訊いてきた。
「いや、見てないよ。ロミオがどうかしたのか?」
「まだスタンドに戻って来ないんだ。午後一番の、障害物走に出るってのに」
何やってんだかなー、と頭をかく。
「ま、アイツに限って遅れることはないよな。仕事中、ジャマして悪かった」
ダンテは一人で納得して、またどこかに行ってしまった。
少し気になるが、ロミオのことだから心配いらないだろう。
午前中はリレーのトップで、皆の注目を集めていた。午後からも活躍して欲しい。
ひょいと、アルフレドの前に紙コップが差し出された。
「お茶、持ってきてやったよ」
ニキータだった。口調こそ素気ないけれど、気を遣ってくれたのが分かる。
何だかんだ言って、優しい子だ。アルフレドは「ありがとう」と微笑んだ。
×××
(血が止まらないなー……)
砂は綺麗に洗い落としたが、相変わらず血が滲んでくる。
ロミオは軽く溜息をつき、蛇口を閉めた。
グラウンドに戻る途中、金髪の少女を発見した。
急に悪戯心が湧いてきて、ロミオは勢いよく彼女の肩を叩いた。
「わ!」
ビアンカは笑顔で振り向いた。
「残念でした、足音で気付いたわ」
「ちぇっ……驚かせようと思ったのに」
元々、アルフレドを介して知り合った二人だが、今では良い友達だ。
こんな風にふざけ合ったりもするので、周りからはカップルだと思われているらしい。
「さっき、お兄ちゃんに会ったの。ロレンツォのことで文句言ってやったわ」
やっぱり、ロレンツォは仕事を放ったらかしにしているようだ。ロミオはくすくすと笑った。
「あら……ロミオ、ケガしてるじゃない!」
赤く染まった膝を見て、ビアンカが声を上げた。しゃがんで患部を覗き込んでくる。
「でも傷口は洗ったよ」
「もう、ちゃんと消毒しなきゃ」
だって、保健室は鍵が掛かってたから。言い訳したいのをぐっと飲み込む。
ビアンカは救急箱を開けて、消毒液と脱脂綿を取り出した。
「そこに座って」
言われるまま、花壇の縁に腰掛ける。ビアンカはてきぱきと治療を進めた。
きりっと引き締まった表情。こうして見ると、兄のアルフレドとよく似ている。
両手に荷物を持った女生徒が、バランスを崩しビアンカにぶつかった。
「きゃっ」
「あ、ゴメンなさい!」
彼女は慌てて「大丈夫ですか」とビアンカに尋ねた。
「ええ、ありがとう」
腕章を付けているから、運営委員なのだろう。
散らばった荷物を拾い集めると、彼女はまた忙しそうに仕事に戻った。
「ビアンカ、どこか打ったりしなかった?」
「ううん……あ、いけない!」
ビアンカが珍しく、当惑した顔をする。
「バンドエイドがないわ。あの子、間違って持って行ったみたい」
「えっ?」
「どうしよう、ロミオに貼ってあげなきゃいけないのに……」
ロミオはバンドエイドがどうこうというより、ビアンカのうろたえ方に驚いた。
意外と心配性なのか。「僕は平気だよ」と言っても、彼女は聞く耳を持たなかった。
「御二方、何かお困りですか?」
二人はびくりとして顔を上げた。白衣を着た男子生徒が、笑みを浮かべて立っている。
「ちょっとロレンツォ、今までどこ行ってたの?」
「そんなに怒るなって。苦情は後で聞くからさ」
ビアンカの詰問を軽くかわして、ロレンツォはこちらに向き直った。
「とりあえずロミオ、足出せよ。それだけ血が止まらないってことは、傷は結構深いはずだ」
素直に右足を出す。ロレンツォは慣れた手付きで消毒液を垂らし、次に軟膏を塗り込んだ。
ガーゼを押し当て、くるくると包帯を巻いていく。
「ちょっとキツめに巻いたけど、関節は動くだろ?」
ロミオは膝を動かしてみた。
「……うん。これだったら、普段通り走れそう」
真っ白い包帯で、見た目こそ痛々しいが、動くのには問題なさそうだった。
午後からの競技のことも考えて、巻き方を工夫してくれたのだろう。
「悔しいけど、ロレンツォって手際いいのね」
ビアンカが渋々認めると、ロレンツォは「これでも医者の息子ですから」と言って笑った。
障害物走に出場する生徒は準備するようにと、アナウンスが流れた。
「お前、選手なんだろ?」
ロミオは頷き、立ち上がった。色んな人に助けてもらった分、懸命に走らないといけない。
――きっと、一番で走りぬいてみせる。
「二人ともありがとう。今から頑張ってくるよ!」