聖バビラ校4

 いよいよ体育祭当日。パン、という空砲と共に、生徒たちの歓声が空に響く。
 仲間の熱い声援を受けて、ロミオは汗を光らせながらコースを駆けた。
 誰よりも速く、それでいてのびのびと。
 しなやかな筋肉に恵まれた体は、もう止まる気がしなかった。



 スタンドに戻ると、クラスメートが総立ちでロミオを迎えた。

「ロミオ、お疲れ!」
「やっぱりすごいな、お前」

 髪やら肩やらをぐしゃぐしゃにされる。
 笑いながら逃げていると、後ろから小さな影が飛び付いてきた。

「アンカーはロミオに任せて正解だったな。何たってゴボウ抜きだもんなー」

 ダンテはふざけて、ロミオの頭を数回叩いた。

「やめろってばダンテ! ギブギブ!」

 そう言って降参すると、クラスからどっと笑いが起こった。



「さあ、しっかり休憩して、午後からの戦いに備えないとな」
「そうだね。勝負はこれからなんだし」

 ペットボトルの水を一口飲んで、ダンテがスタンドに腰を下ろす。ロミオもその隣りに座った。

「何言ってんだロミオ、お前のことだぜ」
「え……僕?」
「そ。我らの勝利は、お前のその足にかかってんだから」

 きょとんとして見返した。ダンテは真面目くさった顔をしている。

「またそんな……」

 大げさなことを言って、からかっているのだろう。お調子者で面白い。
 椅子に腰掛けたまま伸びをすると、彼は突然、驚いたように瞬きをした。

「……おい、足から血が出てるぞ」

 ダンテの言う通り、右の膝から血がダラダラと流れ出していた。

「わっ……どうしたんだろ」
「自分で気付かなかったのか?」

 少し考えてから、ロミオは「あっ」と声を上げた。

「リレーの前に、人込みに押されて転んだんだ。多分その時……」
「じゃあ、ケガした足であれだけ走ったのか!」

 ダンテは妙に感心した様子だった。

「とにかく、傷口洗ってこいよ。そういうのは、早めに治療するのが一番だ」

 確かにそうだ。それに、午後からの種目に差し障りがあってはマズい。
 軽いケガでも用心しておこう。ロミオは保健室に向かった。



 林の辺りまでやって来た時、制服姿の生徒を見かけた。

「あれっ、ジョバンニ?」

 旧図書館のすぐ近く、ここは彼らの縄張りだ。丁度、アジトに戻るところだったのだろう。
 当然のように、体育祭には参加していないらしい。

「ロミオか。今日のヒーローが、こんな所で何してんだ?」

 一瞬、何のことかと思ったが、さっきのリレーの話だと分かった。

「ケガしたから、保健室に行こうと思って……」

 意外な相手に褒められて、何だかくすぐったい。
 照れ隠しに頬をかくと、ジョバンニはちらっとケガした足を見た。

「保健室なら、鍵が掛かってたぜ」
「え、そうなの?」

 待機しているはずの委員は、どこへ行ってしまったのだろう。

(あ……保健委員って、ロレンツォだ)

 ロミオは状況を理解した。大方、サボリ癖のあるロレンツォが、仕事を放り出したのだ。
 こうなれば、水道で洗って済ませよう。治療は諦めるしかない。



「そういえば、ジョバンニの仲間は元気? えっと、タキオーニとかファウスティーノとか」

 この学校の不良という不良は、ジョバンニのことをリーダーとして慕っている。
 複雑な力関係も存在するようだが、外の人間から見れば、彼らはまとめて‘狼の仲間’だった。

「さあな。少なくとも、お前みたいにケガはしてねえ」
「リナルドは?」
「アイツはまだ部屋で寝てる」

 ロミオは声を立てて笑った。
 以前焼きそばパンをあげたリナルドのように、狼一味にも憎めない奴は多い。

「じゃあ、そろそろ行くよ。またね」

 傷口を洗ったら、早めにグラウンドに戻らなければ。ロミオは手を振り、ジョバンニと別れた。


×××


 陽射しが強い。アルフレドは手をかざして、澄んだ青空を見上げた。
 天気が良くて何よりだ。体育祭で雨が降ると、生徒たちのモチベーションは上がらないし、
 委員の仕事も煩雑になる。
 テントでは点数の集計が行われていた。中に入ろうとして、ふと足を止める。

「ちょっとしみるけど、ガマンしてねー」

 救急箱を持った少女が、テント横でケガの手当てをしていた。

「はい、これでもう大丈夫よ」

 指の切り傷を消毒し、テープを巻いてやる。
 ケガした子は礼を言って、付き添いの友人と一緒に去って行った。



「保健の仕事にも慣れたみたいだね、ビアンカ」
「お兄ちゃん」

 救急箱を抱えてから、ビアンカはこちらに駆け寄ってきた。

「今日は忙しいんでしょ? でも休憩は取らなきゃダメよ。あ、昼ご飯はちゃんと食べたの?」

 会って早々これだ。アルフレドは苦笑し、「心配しなくても大丈夫」と答えた。
 全く、彼女には頭が上がらない。



「ビアンカこそ、外回りの仕事で大変そうだな。保健室で待機しておけばいいのに」
「嫌よ。皆がグラウンドに出てるのに、一人だけ校舎にいるなんて寂しいもの。
保健室には鍵を掛けてきたわ」

 ビアンカはあっさり言って、ポケットから鍵を取り出した。

(今、保健室は誰もいないのか……)

 それでは、治療してもらおうと校舎まで来た生徒は、骨折り損になってしまう。
 迂闊なことをしたものだ。アルフレドは顔を曇らせた。
 かといって、妹ばかりを責める気にはなれない。本来、働くべきはビアンカではないのだから。

「ロレンツォは一緒じゃないのか」
「そう、あの人ったら信じられないわ! 新米の私に全部押し付けて、自分はほとんど
保健室にいないのよ。今度こそ、ぴしゃりと言ってやるんだから!」

 ロレンツォは放浪癖があって、目を離すとすぐに姿を消してしまう。
 部屋でじっとしているのが苦手らしい。決して、悪い人間ではないのだが。

「お兄ちゃんも、同じ生徒会メンバーなんだから何とかしてよ」

 思いがけず、とばっちりを受けてしまった。

「ああ……うん、注意しておく」

 ビアンカは最後にもう一度、「絶対よ」と念押した。
 言い出したら聞かない性格なのだ。一体誰に似たのだろう。
 亡くなった両親はどちらも、温厚な人柄だったはず。アルフレドは真剣に考え込んだ。



 昼休みの注意事項について、アナウンスが流れる。
 たくさんのコードを踏まないよう注意しながら、アルフレドはテント内に入った。
 パイプ椅子が無駄にスペースを占めている。委員用の椅子なのだが、本番で皆緊張し
 座れるような雰囲気ではないので、ただそこに置いてあるのだった。

「すいませーん、ちょっと通して」

 聞き覚えのある声だ。反射的に目を向ける。人の間を縫って、ほどなくダンテが現れた。

「なあアルフレド、ロミオ見なかったか?」

 開口一番に、ダンテはそう訊いてきた。

「いや、見てないよ。ロミオがどうかしたのか?」
「まだスタンドに戻って来ないんだ。午後一番の、障害物走に出るってのに」

 何やってんだかなー、と頭をかく。

「ま、アイツに限って遅れることはないよな。仕事中、ジャマして悪かった」

 ダンテは一人で納得して、またどこかに行ってしまった。
 少し気になるが、ロミオのことだから心配いらないだろう。
 午前中はリレーのトップで、皆の注目を集めていた。午後からも活躍して欲しい。



 ひょいと、アルフレドの前に紙コップが差し出された。

「お茶、持ってきてやったよ」

 ニキータだった。口調こそ素気ないけれど、気を遣ってくれたのが分かる。
 何だかんだ言って、優しい子だ。アルフレドは「ありがとう」と微笑んだ。


×××


(血が止まらないなー……)

 砂は綺麗に洗い落としたが、相変わらず血が滲んでくる。
 ロミオは軽く溜息をつき、蛇口を閉めた。



 グラウンドに戻る途中、金髪の少女を発見した。
 急に悪戯心が湧いてきて、ロミオは勢いよく彼女の肩を叩いた。

「わ!」

 ビアンカは笑顔で振り向いた。

「残念でした、足音で気付いたわ」
「ちぇっ……驚かせようと思ったのに」

 元々、アルフレドを介して知り合った二人だが、今では良い友達だ。
 こんな風にふざけ合ったりもするので、周りからはカップルだと思われているらしい。

「さっき、お兄ちゃんに会ったの。ロレンツォのことで文句言ってやったわ」

 やっぱり、ロレンツォは仕事を放ったらかしにしているようだ。ロミオはくすくすと笑った。



「あら……ロミオ、ケガしてるじゃない!」

 赤く染まった膝を見て、ビアンカが声を上げた。しゃがんで患部を覗き込んでくる。

「でも傷口は洗ったよ」
「もう、ちゃんと消毒しなきゃ」

 だって、保健室は鍵が掛かってたから。言い訳したいのをぐっと飲み込む。
 ビアンカは救急箱を開けて、消毒液と脱脂綿を取り出した。

「そこに座って」

 言われるまま、花壇の縁に腰掛ける。ビアンカはてきぱきと治療を進めた。
 きりっと引き締まった表情。こうして見ると、兄のアルフレドとよく似ている。



 両手に荷物を持った女生徒が、バランスを崩しビアンカにぶつかった。

「きゃっ」
「あ、ゴメンなさい!」

 彼女は慌てて「大丈夫ですか」とビアンカに尋ねた。

「ええ、ありがとう」

 腕章を付けているから、運営委員なのだろう。
 散らばった荷物を拾い集めると、彼女はまた忙しそうに仕事に戻った。



「ビアンカ、どこか打ったりしなかった?」
「ううん……あ、いけない!」

 ビアンカが珍しく、当惑した顔をする。

「バンドエイドがないわ。あの子、間違って持って行ったみたい」
「えっ?」
「どうしよう、ロミオに貼ってあげなきゃいけないのに……」

 ロミオはバンドエイドがどうこうというより、ビアンカのうろたえ方に驚いた。
 意外と心配性なのか。「僕は平気だよ」と言っても、彼女は聞く耳を持たなかった。



「御二方、何かお困りですか?」



 二人はびくりとして顔を上げた。白衣を着た男子生徒が、笑みを浮かべて立っている。

「ちょっとロレンツォ、今までどこ行ってたの?」
「そんなに怒るなって。苦情は後で聞くからさ」

 ビアンカの詰問を軽くかわして、ロレンツォはこちらに向き直った。

「とりあえずロミオ、足出せよ。それだけ血が止まらないってことは、傷は結構深いはずだ」

 素直に右足を出す。ロレンツォは慣れた手付きで消毒液を垂らし、次に軟膏を塗り込んだ。
 ガーゼを押し当て、くるくると包帯を巻いていく。

「ちょっとキツめに巻いたけど、関節は動くだろ?」

 ロミオは膝を動かしてみた。

「……うん。これだったら、普段通り走れそう」

 真っ白い包帯で、見た目こそ痛々しいが、動くのには問題なさそうだった。
 午後からの競技のことも考えて、巻き方を工夫してくれたのだろう。

「悔しいけど、ロレンツォって手際いいのね」

 ビアンカが渋々認めると、ロレンツォは「これでも医者の息子ですから」と言って笑った。



 障害物走に出場する生徒は準備するようにと、アナウンスが流れた。

「お前、選手なんだろ?」

 ロミオは頷き、立ち上がった。色んな人に助けてもらった分、懸命に走らないといけない。
 ――きっと、一番で走りぬいてみせる。



「二人ともありがとう。今から頑張ってくるよ!」
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