昼休み。ランチを済ませてから、噴水の前で級友と別れた。
天気の良い午後で、芝生の上で談笑している生徒も見かける。
(久しぶりに、ゆっくり過ごせるわ)
ビアンカは軽い足取りで階段を上った。
最近、休み時間はずっと保健の仕事をしていたから、解放感もひとしおだ。
珍しくロレンツォが保健室に顔を出し、ビアンカは今日一日フリーになったのである。
手には色あせた表紙の本。図書館で借りたのだが、期限を三日ほど過ぎていた。
早く返さないと、貸し出し停止処分になってしまう。
幸い、図書委員から注意を受けただけで、罰則は付かなかった。
ほっとしながら小説の棚へ向かう。上の方にある一冊が気になったが、背伸びをしても届かない。
脚立を使うしかないと思ったところに、一人の女生徒がやって来た。
ふわりと甘い香りがする。優しいフレグランス。ビアンカは思わずぱっと振り向いた。
赤い髪の上級生だ。突然目が合って、彼女は驚いたように瞬きをした。
「えっと……何?」
「あ、いえ、何でもないです」
すらりと長い手足に、赤毛のショートヘア。アーモンド型の眼。
じろじろ見るのも失礼なので、ビアンカはまた棚の方に視線を戻した。
「あそこの、青い背表紙のヤツ?」
今度は彼女から話しかけてきた。ビアンカの返事を待たずに、ひょいと本を抜き取る。
「はい」と言って手渡してくれたのは、まさに取りたかった一冊だった。
「あ、ありがとうございます」
どういたしまして、と微笑する。去り際に、うなじから柔らかい香りがした。
(何ていうか……カッコいい人ね)
従姉のアンジェレッタも美少女だが、それとはまた違うスタイリッシュな雰囲気だ。
名前を聞いておけば良かった。しかし、初対面で馴れ馴れし過ぎるのもどうかと考え直す。
「助けてニキータ! 私、今度の化学のテスト、本当にヤバいかも……」
窓際の席で呻き声が上がった。声の主は、ふっくらした頬の女生徒である。
確か、一級上のアニタという人だ。友人というわけではないが、ロミオの幼馴染みとのことで
顔は知っている。
「分かったから、図書館で騒ぐなよ」
答えたのは、さっきの上級生だった。名前はニキータというらしい。
ニキータは短い髪をかき上げながら、アニタの持っている参考書を覗き込んだ。
「……で、どこがヤバいって?」
「何かもう全体的に……とりあえずmolって何?」
「ちょっと、いくら何でもそれは!」
大声を上げてから、しまったという表情でニキータは周囲を見回した。
面白い人だ。くすりと笑って、ビアンカは図書館を後にした。
放課後、ビアンカはまっすぐ四年生のフロアに向かった。
教室の前で待ち伏せる。ほどなく、アンジェレッタが姿を現した。
「ビアンカ、わざわざ迎えに来てくれたの?」
「ええ、生徒会の仕事が休みって聞いたから。ウチに遊びに来ない? 美味しいケーキを
買ってあるの」
従姉妹同士で年も近い二人は、気の置けない友人というより、いっそ姉妹のような感覚だ。
暇を見つけては一緒にお茶をしたり、買い物に行ったりしている。
「ありがとう。じゃあ先に、おばあさまに連絡しておくわ」
歩きながら、アンジェレッタはケータイを取り出した。三年生のフロアに差しかかった辺りだ。
ふと、昼休みに嗅いだのと同じ香りがした。ニキータとすれ違ったのだ。
咄嗟に彼女を追いかけて、後ろから肩を叩く。
「あのっ、昼休みはどうもありがとうございました!」
「ああ……気にしなくていいよ」
大袈裟すぎる反応に、ニキータが苦笑する。
「ビアンカったら、急に走り出してどうしたの?」
後ろからアンジェレッタも近付いてきた。そして意外にも、ニキータと親しげに挨拶をする。
予想していなかった繋がりにびっくりした。
「あなた、アンジェレッタのお友達ですか?」
「えっと……そんなとこかな?」
ニキータがアンジェレッタの方を伺い見る。
「ニキータは私の友達で、同じ生徒会役員よ」
簡潔な紹介だったが、ビアンカはピンときた。一時期、‘狼の妹’と噂されたその人だ。
女子校からの編入だと聞いている。雰囲気が洗練されているのは、そのせいかもしれない。
アンジェレッタは微笑みながら、ニキータの方に向き直った。
「この子はビアンカ。アルフレドの妹で、私の従妹なの。見ての通りお転婆さんだけど、
仲良くしてあげてね」
「もう、変なこと言わないでよ……」
憧れの先輩の前で、欠点を暴露された気分だ。
口を尖らせて抗議すると、ニキータが気を許した笑顔を見せた。
×××
校舎を出ると、薄紫の空が広がっていた。さらに夕雲が色を重ねる。
絵に描いてみたい。そう思って、アンジェレッタは髪をかき上げた。
「じゃ、あたしはこれで」
声をかけたのはニキータだった。我に返り、数回瞬きをする。
帰る方向が違うのだろうか。または、従姉妹同士の邪魔はしたくないと思ったのか。
定かではないが、アンジェレッタとしてはここで別れるのは惜しかった。
ひとまず「何か用事があるの?」と訊いてみる。
「え、何もないけど」
「だったら、私たちと一緒に来ない? ビアンカの所で、お茶を頂くことになってるの」
ニキータは迷う素振りを見せた。突然の誘いだから無理もない。
すると、ビアンカが人懐こい笑みを浮かべた。
「お茶っていうのは口実で、テスト前だから一緒に勉強しましょうってこと」
内緒話でもするかのように、耳元で打ち明ける。
どういうわけか、彼女はニキータのことが気に入ったようだ。
「いつもはアンジェレッタに色々教えてもらうんだけど、あなたも来てくれたらもっと心強いわ。
お願いします」
初対面の相手にすっかり打ち解け、甘えてみせる。
本来しっかり者の少女なのに、珍しいこともあるものだ。
「分かった。そういうことなら、お茶につられて行ってみようかな」
ニキータは少し照れた様子で、こちらを振り向いた。
それに頷いてから、アンジェレッタは声をたてて笑った。
三人は喋りながら、市街地へと入っていった。ショーウィンドウに行き交う人の影が映る。
立ち並ぶカフェやブティックが、午後の華やぎを感じさせた。
「ここを通るのが一番近いんだけど、ついあちこち寄り道して、結局時間かかっちゃうのよね」
「ビアンカらしいわ」
そうからかった直後、書店の前でアンジェレッタは足を止めた。
「あ……ごめんなさい、ちょっと寄ってもいいかしら」
返事を待たずに、いそいそと店内に入った。
「何よ、アンジェレッタだって」と、後ろから反撃の声が聞こえる。
構わず、まっすぐ書棚へ向かった。目当ての本はすぐ見つかる。
そっと表紙を撫でてから、徐に腕に抱いてみた。
「買うの?」
「ええ」
ビアンカは「絵が好きなのね」と言って手元を覗き込んできた。
前から欲しいと思っていた画集だ。下校中だとかさばるが、この際だから買っておこう。
「そういえば、アンジェレッタは美大を目指してるんだっけ?」
その言葉に驚いて、ニキータの顔を見つめた。
自分から話した覚えはない。恐らく、ダンテにでも聞いたのだろう。
「え……本当? 私、初めて聞いたわ」
ビアンカは興味津々といった顔だ。別に隠していたわけではないが、ちょっと気まずい。
曖昧に微笑んでから、ニキータの方に向き直る。
「そういうニキータはどうなの?」
「んー、とりあえず文学かな……はっきりしないけど」
ゆっくりと、思案顔で言う。横で聞いていたビアンカが、感心したように溜息をついた。
「すごい、将来のこともちゃんと考えてるのね。私も早く決めないとダメかしら」
「ビアンカはまだ二年生じゃない」
二つ上のアンジェレッタですら、そんな先のことにはいまいち実感が湧かない。
急がなくてもいいのだと、従妹の金髪を撫でてやる。
買い物を済ませた後は、通りを抜けて角を曲がった。
ビアンカがすっと手を伸ばし、前方の小高い丘を指差した。
「あの丘の上にあるのが、私の家よ。皆はここを、マルティーニの丘って呼ぶの」
要するに、それだけの名家だということだ。
本人は何の気なしに言ったようだが、聞いたニキータは目を丸くしている。
マルティーニ家――幸福そのものだった彼らに悲劇が起こったのは、二年前のことだ。
尤も、屋敷は今も変わらずどっしりとそこに立っている。
「行きましょうか」
軽く頭を振って、アンジェレッタは二人を促した。
×××
渡り廊下には、幾筋もの光が差し込んでいた。見晴らしの良い窓だ。
街を見下ろしながら、ニキータが軽く声を上げた。あそこに学校が見えると言って、喜んでいる。
「いつも通り、書斎でいいでしょう?」
「そうね」
アンジェレッタは幼い頃からよく遊びに来ているので、ほとんど全ての部屋を回ったことがある。
勉強会が名目となってからは、書斎に通されることが多かった。
普段はアルフレドが使用している場所だが、幸い今は留守だという。
「本が……すごい量」
戸を開けた途端、ニキータは呆気に取られた顔をした。
確かに、図書室といってもいいくらいの規模だ。
それでも、この屋敷内では特別広い部屋ではない。
「気になるのがあったら、どれでも貸すわ。といっても、私の本じゃないんだけど」
ビアンカは俯いて「亡くなった両親の所蔵なの」と告げた。
初めて事情を知ったのだろう、ニキータは衝撃を受けた様子だ。
事故で亡くなったマルティーニ夫妻。二人とも、とても温かい人柄だった。
その眼差しを思い浮かべながら、アンジェレッタは口を開いた。
「お湯を沸かしてくるわね」
肩越しにそう言って、静かに部屋を後にした。
アンジェレッタ自身は、物心付くまえに両親を亡くしている。
それだけに、伯母夫婦であるマルティーニ夫妻は、アンジェレッタにとっても親替わりのような
存在だった。事故の知らせを聞いた時は、あまりのことに気を失ったくらいだ。
残された兄妹の後見となったのは、モントバーニ伯爵家である。
少しでも従兄妹たちを助けたい。聡明なアルフレドは、既に当主としての自覚を備えていた。
側には快活なビアンカもいる。大丈夫、マルティーニ家は崩れはしない。
二人が大人になるまで、見守ってやるのが私たちの役目――これは祖母の言葉だ。
「……アンジェレッタ様?」
ティーセットの用意をしていると、メイドが恐る恐る声をかけてきた。
「まあ、申し訳ありません、続きは私が……!」
「ううん、いいのよ。私、こういう支度をするのって好きなんです」
余計な気を遣わせたくなかったのだが、運悪く見つかってしまった。
メイドはあたふたとこちらに近付いてくる。
さあ、後は書斎に運ぶだけだ。「いいのよ、私にやらせて」とアンジェレッタは念押した。
書斎に戻ると、何やら楽しげな話し声が聞こえた。
アンジェレッタがいない間に話題が変わったらしい。部屋の空気が全然違う。
「何の話をしてるの?」
ビアンカがぱっと振り向いた。先程とは打って変わって、明るい表情をしている。
「あっ、持ってきてくれたのね。ありがとう」
丸テーブルに三人分の皿とカップを並べる。
ポットから紅茶を注ぎ、「どうぞ」と言ってニキータの前に差し出した。
すると、何を思ったかニキータがいきなり笑い出す。
「どうしたの?」
「いや……丁度‘アンジェレッタってお姉さんみたい’っていう話をしてたもんだから」
「あら、私が?」
紅茶を勧めてくる所作が、まさに‘お姉さん’だったという。
ビアンカも同意しつつ、少し唇を尖らせた。
「お兄ちゃんにしろアンジェレッタにしろ、本当にしっかりしてるもの。一緒にいると、自分が
すごく子供みたいな気がして」
「そうかな? 別に、子供っぽくはないと思うけど」
ニキータは紅茶を飲みながら「それに、ビアンカはアルフレドとよく似てるよ」と付け加えた。
「本当?」
兄に似ていると言われて、ビアンカはほんのり頬を染めた。
彼女は誰より兄のことを尊敬しているのだ。
「ねえ、ニキータって何か香水使ってる? いい匂いがするわ」
ニキータは意外そうに首を傾げ、自分で自分の腕を嗅いだ。
「香水は使ってないよ。多分、シャンプーの匂いだと思う」
「何ていうシャンプーなの? ……そうだ、今度皆で買い物に行かない? きっと楽しいわよ」
話好きなビアンカは、勢い付いたらなかなか止まらない。
微笑ましく思いつつも、姉役として一応口を挟む。
「お喋りもいいけど、今日は勉強会なんでしょう? ちゃんと教科書を出してね、ビアンカ」
ビアンカは「分かりました、お姉さま」と言ってぺろりと舌を出した。